命日の修正
もうすぐで1月が終わる。
2週間もすれば、あの忌まわしき日々から半年。
早すぎて眩暈がする。
どうやって半年を過ごしたのか、とにかく子供たちに悟られることのないよう、それまでの【日常】を演出することに精一杯だった。
多くの人の手を借りて、子供たちの前では笑っていられた。
その後は職場からの優しさで、まとまった1人の時間をいただいて。
ようやく、自然に日常を送れている。
ときぐすり、スゴい。
そんな中、弟の命日が修正された。
修正といっても、そもそも行方不明から発見まで時間が経っていたから、検死の結果で明確な日は分からず、曖昧に記述された。
それを役所は処理してくれたが、生きていた期間までも死亡日に含めた。
田舎の役所だから行方不明の経緯は知れ渡っていた中にこの対応かよ、という呆れ。
両親は軽微な修正じゃないかと掛け合ったが、どういう判断か出来ず。
何度も掛け合い、裁判所や警察に足を運んだ両親。
色々あって、方向性が定まり、ようやく裁判所から「修正できるよ」と許可が下りた。
良かった。
この日付にこだわったところで、弟は帰ってこない。
この処理と、弟の事故(か、事件かわかんないけれど)との関係は皆無。
ただ、私たちの大切な弟を蔑ろにされているような気がして、ずっと怒っている。
届出なんて、申請ではないから処理はそんなに手間ではない。
私も公僕として働く身、わかるよ。
ただ、あまりにも画一的というか、住民目線が無さすぎやしないか。
マニュアルだけで、住民の顔なんて一瞥もしていないじゃないか。
どうか役所の担当者は、
自分の流れ作業的対応で、心に一生ものの傷を負った住民がいることを、
一生忘れないで、働き続けてほしい。
私が担当者の名前を知ってしまったら、帰省するたびに顔を見に行って
「まだあの対応忘れていませんか?仕事辞めないでくださいね」
と言いに行きそうなので、誰にも聞かないでおこう。
私も公僕として、留意したい。
こうやって誰か敵がいるから、日常を送れているんだろうな。
今日はここまで。
安心した気持ちと、腹立たしいのと、寂しいのと。
息子に「お母さん、ニコってして?」と言われてしまったよ。
弟に
『姉貴、時間とエネルギーの無駄だから、ふみふみとちーちゃんに笑ってあげなよ』
と言われそうだ。
頭ではわかっているんだけれど、なかなか難しい。
うーむ、冬だなぁ、センチメンタルになりがちだ。