すずうくぬつ

自分のための、弟のしじゅうくにちです。その日に思い出した弟との思い出を忘れないように、必死こいて文字化しています。

2500文字近く

両親が来てくれて1週間が経った。

子供達が登園している間、両親と3人。

母に台所、父に庭を任せて、ひたすら家の掃除をしている。

観光とかせずに。

とんでもない娘である。

 

前回の記事を読み返したら、非常に読みづらかった。

ただ、修正するのも疲れちゃうので、そのままで、続き。

 

「身元不明遺体が見つかった。」

このときの父の声は、まだまだ鮮明に覚えている。

必死に泣くのを堪えている声。

私の結婚式ですら泣かなかったのに。

(私自身も、両親への手紙を涙一滴も流さず読み上げたが)

電話口の少し遠くから、聞いたこともない母の泣き叫ぶ声、これもまた鮮明に覚えている。

咄嗟に私の口から出たのは、「この件のケアは個人では限界がある、心療内科とかカウンセラーとか、専門家の力を借りて」という非常に人任せなお願いだった。

多分、自分自身が「これは第三者が必要だ」と判断し、心療内科とカウンセリングの予約をしていたからだ。

 

そのあと、とにかく倒れたらダメだという一心で昼食に蕎麦を食べた。

夫にも早退してもらった。

 

夕食前に母から連絡があり、「検死は明日になる」との報告をもらった。

明日になれば色々わかるのか、知りたいような、知りたくないような、よくわからない頭の中。

その晩、どうやって過ごしたのかは覚えていない。

ただ、スマホを見ると色んなところに連絡していたようだ。

 

とりあえず朝を迎え、息子が登園する前にヨガコーチが自宅へ来てくれた。

私と娘を車に乗せて、私は心療内科へ。

その間、娘を見てくれるという。

お陰で、時間を気にすることなく待つことが出来た。

眠剤をいただいて、再びコーチに迎えに来てもらい。

ずっと近くに居てもらい、息子のお迎えに付き添ってもらい。

夕食まで、息子と遊んでもらい。。

信じられないくらいの優しさというか、愛をいただいた。

検死の結果について親から連絡が来るかと思いきや、何もなく。

聞きたかった気持ちと、聞けない気持ちがバトルしていた。

 

翌日は職場のパートさんがシフト休だったので、来てくださった。

たくさんの食材を持って。

中には離乳食もあり、すごくホッとしたのを覚えている。

お昼過ぎに母から「これから火葬だよ」と電話が来た。

泣いていなかったが、全てを放棄したような、全然力のない声。

弟の棺の近くにいるから、最後になんかない?とのことで。

たくさん喧嘩したけど、なんやかんや大好きだったなー

ということを伝えた、はず。

母は弟の顔を見ることはできなかったそうだ。

父は見て、小さい子に接するように、頬擦りしてきたそうだ。

30近く離れたいい歳した男同士、生きていたら「何してんのー」って爆笑するシチュエーション。

爆笑したかった。

Snowで顔交換して遊んでいたりした2人、父の気持ちも想像出来ない。

このときも検死について、聞けなかった。

 

そして1週間が経過した。

当初予定していなかった葬儀をやることにした、と連絡があった。

両親なりに、色々なことを調べたり話を聞いたりして、そう判断したらしい。

実家への移動は不可能だったので、花を贈った。

葬儀は両親だけで行った。

2人とも、弔問客の対応なんて、とてもじゃないが無理そうだったし、私は両親の判断を全て肯定するだけの無能な娘だな、とぼんやり思った。

 

日々両親のことを心配したり、自分の心も壊れそうでグリーフケアカウンセリングに行ってみたり、塗り絵したり、日記をつけたり。

このブログを始めてみたり。

生きることに試行錯誤していた、というか今も進行形で試行錯誤。

 

それから。

母はしばらく寝込んだ。

パジャマを脱ぐまで、どれくらいかかっただろうか。

親戚が外に連れ出してくれたり、色々な本や文献を読み、「弟は親不孝でもなんでもない、素晴らしい人生だった」という考えになり、今ではテキパキと台所に立てるようになった。

ダイヤモンドにすると決めたことで、少し落ち着いたように見える。

弟のエピソードもニコニコしながら話している。

父は、寝込んでいた母に代わり手続き関連を全て担い、母に代わり食事の支度なども全て担い、身体や手を動かすことで気を紛らわせていた。

母が動けるようになって、考える時間が出来てしまったようだ。

今では、母に心配されているし、私も父の方が心配だ。

だから今、庭仕事を任せている(言い訳)。

私は弟は最期に誰の顔を浮かべたのかを考えてしまい、なかなか眠れないので入眠剤を飲み、息子を亡くす夢を見てばかりだ。

 

検死結果について、聞きたい気持ちの方が強くなってきた…というよりもモヤモヤを晴らしたくて、父に聞いてみた。

結果は、何もわからない、というもの。

行方不明になってから見つかるまで、時間が経ってしまっていたため、何も特定出来ないという。

せめて、弟の持ち物が近くて見つかるとかすれば、ある程度の状況は分かりそうだが、何一つ分からない。

永遠に、分かることはない。

父に聞く前と、なんら変わらない。

むしろ「どう頑張っても分からない」ということが明らかになってしまった。

父も私も、超絶理屈っぽい人間なので、このモヤモヤが辛い。

 

他にも行政の方が色々エラーをやらかしてくれたので、両親にまだまだToDoがある。

「ただでさえ息子を亡くして辛いところ、まだ苦しめるのか」と、両親ではなく、近くで見ている人たちの方が腹を立てている。

そもそも、捜索まで腰が重いのも家族としては辛かったが、

それを抜きにしても弟の名前を間違えてHPに掲載したり、「自殺だったんじゃないですか?」と言ったり、両親の心を散々傷つけてくれたことに、私も腹を立てている。

敵がいる方が、感情のぶつけどころがあって、まだやりやすい。

近所のお巡りさんはパトカーを見せてくれたりと、とても大好きなんだけれど。

我ながら、クソ野郎だと、心から思う。

 

 

母は「(弟は)あっちで楽しく、祖父母に可愛がってもらっているよー」と、弟目線で弟のことを考えている。

父と私は、寂しい・納得できない・不明瞭だ、という自分目線で弟のことを考えている。

これから先、距離は離れているとはいえ、3人でどう過ごしていけば良いのか。

難しい。