すずうくぬつ

自分のための、弟のしじゅうくにちです。その日に思い出した弟との思い出を忘れないように、必死こいて文字化しています。

ガム

息子が最近、咀嚼する真似をしながらこう言う。

「ガム食べてるの。今ね、おじちゃん(ごっこ)なの」

「(紙を広げる仕草をして)これ、ティッシュね。ペッしまーす。ガム、ペ!

 クルクル〜ってして、ゴミ箱ポイです!」

礼儀正しいようだけれど、咀嚼する仕草はあまり上品ではないぞ。

 

弟はガム大好きっ子だった。

子供の頃から。

近所の床屋さんが、子供には必ず10円ガム(FELIXのイラストが描かれたマルカワのアレ)をくれるところで、中にあたりクジがあることも含めて、大好きだったようだ。

同じくマルカワの、フルーツガムも大変好んでいた。

ガムボールマシーンも大好き。

私から見れば、色は毒々しいし、無駄に大きいし、味も大したことがない…と思っていたが。

年齢1桁時代の弟には魅力的だったのだろう。

見かけたら母におねだりしていた。

 

ただ、そんな弟に悪い癖があった。

ガムを飲み込んでしまうことだ。

両親共に「ちゃんとティッシュとか、ガムが包まれていた紙に出しなさい!」と口を酸っぱくして注意していたが。

面倒だったのだろうか、飲み込むエブリデイ。

そしてあるとき、『ウンコがなかなか出ない』と親に訴えていた。

両親曰く、「ガムを飲み込むから、お尻の穴がガムで閉じちゃったんだよ!」

んなわけあるか、と思いたいが、子供の頃は本気で信じた。

弟だけじゃなく、私までビビって「ガム怖い」という風潮になった。

その後、多分無事に便通はあったのだと思う。

そしてどういうわけか、大変快便くんになった(うんち - すずうくぬつ)。

ガムの飲み込みをやめたからかなぁ。

 

ある程度大きくなると、ボトルガムを常備するようになった。

机の上にあったし、車を手に入れてからはドリンクホルダーの1つはガム。

息子は車に乗せてもらった時のそれを覚えており、コンビニでボトルガムを見かける「これはおじちゃんの車と同じ!」と必ず言う。

味はだいたいハード系で、刺激に弱い私は貰いながらも早々に出してしまい、

『姉貴もうガム終わりかよ、もったいねぇ』

と嗜められた。

 

どういったキッカケで息子が「ガムを食べるおじちゃんごっこ」にハマったのかは、わからない。

ただ、ハマるとそこそこ続くので、トコトンおじちゃんのことを思い出してもらおうと思う。

親のエゴと言われても、良い。

そのうち、色々上書きされてしまうんだから。

 

なお、私も子供の頃、なんやかんやガムを食べていた。

ある日、ガムを食べながらテレビを見ていたら、母から「お風呂に来なさい」と呼ばれた。

お風呂で飲食はダメだと言われていたので、ガムを捨てようと思ったのに、良い紙がない。

どうしようか悩んだ結果、ガムを自分のおへその中に入れることにした。

お風呂場で私のへそに入ったガムを見つけた母に、怒られた。

 

かたや便秘、かたや臍の中に捨てる。

母としてガムって忌々しいお菓子なのではなかろうか。

石窯焼き

今週のお題「ピザ」。

両親が来ていたとき、それはもう大変な食生活だった。

お寿司を食べたり。

昼に海鮮丼、おやつにミスド、夜にピザーラ

奇跡的に体重は増えていないけれど、なんだろう、皮膚が弛んでいる。

筋肉で体重増やしたい。

 

ピザは息子のリクエスト。

夫と「3歳児健診頑張ったら、ピザーラバイクのトミカを買いに行こう!」と約束していたらしい。

3歳児健診は私が連れて行き、検尿失敗した以外は問題なかったので帰宅しようとしたら、

「ピザのバイクは?お父さんと約束した。買ってからじゃなきゃ帰らない」

とゴネるゴネるゴネる。

あまりにもゴネたので、心の中で夫に舌打ちしながら、ヨーカドーでトミカを買った。

そんなことがあったので、息子は「ピザバイク見たい」モード。

注文して、夫と私の母と息子の3人で取りに行った。

息子は無事バイクは見たそうだが、頭の中は完全に食べるモード。

そこまで感動していなかった。親の努力よ…。

 

実家でもよくピザは焼いていた。

母が昔からパン作りが趣味で、

パン教室に通い、

弟が就職するあたりでパン講師のお免状を取得して、

ついには食品衛生管理者の資格を取得して自宅に工房を作った。

私が結婚して、さらに転職もして遠くに行ってから、窯を購入

両親と弟で、窯ピザを堪能していたらしい。

私はLINEで送られてくる写真を指を咥えて眺めるだけ。

そのうち送られてきた写真がこれ。

左側にいる弟。スマホの画面は息子の動画。

f:id:aubergineagebitashi:20201127103402j:image

具材も味付けもシンプル。

コスパも良い。

この窯ピザを私が食べられたのは、昨年の夏。

まだ娘がお腹の中にいたとき。

弟が外で火の番をして、焼き上がったら家の中にいる私と息子に持ってきてくれた。

が、表面はいい感じでもひっくり返すと真っ黒コゲ。

「ねえ、(息子が苦いと嫌がるし)健康的に不安があるから、表面このままで裏面焦がさないでやれる?」

『姉貴、ババア(※母のこと)が言ってた、原始的な窯でそれは無理だって』

「えー。」

『仕方ねえよ、ね〜、ふみくん。』

意味もなく息子に話しかける。

 

思えば二人暮らししていた時、宅配ピザやらなかったな。

高くて。

宅配は一度だけ、テレビで「ビバパエリア」が取り上げられていたとき…

『なにこれめっちゃ美味そう!コレ食べたい!』

「昨日チラシ入ってたよ!なに頼むか決めよう!」

『明日の晩メシ決まりだ、帰るの楽しみ!』

スーパーハイテンションになってチラシを眺めていた。

初めてだしテレビで取り上げられた人気メニューをチョイスしよっか〜なんて話していたのに。

チラシ下に書かれている宅配エリアに、住んでいるところが、入って、ない。

もう一度見てみるが、隣のブロックまであるのに、弟と私の棲家は、エリア外。

一気にテンションが落ちる2人。

『じゃあなんでチラシ入れるんだよ…』

諦めきれずに電話してみるが、エリア外だからダメだった。

ほんと、なんでチラシ入れるのよ!!

 

それ以降、チラシの配達エリアを真っ先に見るようになった。

そしてビバパエリアは、未だに食べたことがない。

お好み焼き

先日、両親が帰った。

弟がいなくなって3ヶ月が経つが、まだまだ、やらねばならないことがあるからだ。

娘としては、「息子との思い出に向き合うだけの時間」を過ごしてほしいところだけれど。

「あの子が可愛いから、あの子のために頑張る」とのことで。

このブログの存在でもカミングアウトして(前回・前々回の記事を削除したうえで)、

思い出話にケラケラ笑う時間だけを過ごす予定だったけれど、

まだ早い。心からは無理だ。

行政手続き、ルールとはいえ、担当者も他の業務があるから付きっきりになれないとは頭で分かっているが、本当に残酷だ。

(しかも君たちのエラーじゃないか…)

 

両親が帰る前日は、子供たちと両親4人で公園へ。

わたしと夫は夕食の買い出しへ行った。

お好み焼きの食材を買いに。

実家に帰った時、弟が料理を担当するときは必ずお好み焼き。

息子にもその印象が強く残っていて、「おじちゃんが作ったお好み焼き!」とよく言っていた。

キャベツの千切りが下手くそで、『ふぅー、キャベツ全部切ったー!』と言って仕上がったモノは短冊のようなキャベツ。

母に「おまえ、それは千切りじゃねぇ十切りだ」とダメ出しを食らっていた。

『なかなか真ん中まで火が通らない』と言って、ホットプレートに蓋をしたりお好み焼きをぎゅうぎゅう押しつけたときは、

父に「それはお好み焼きの作り方じゃない」とダメ出しを食らっていた。

私と息子との3人で材料の買い出しに行ったとき、『俺、海鮮入れたら最高に美味しいと思う!』と自信満々だったので、息子をカートに座らせたまま、私と弟2人で海鮮ミックスの種類、量を悩んで悩んだ。

作る前に海鮮ミックスが解凍されていないと気付いて、流水解凍する際に袋から出しており、

私に「ねぇ、流水解凍って袋のままじゃないの?」とダメ出しを食らっていた。

四方八方からダメ出しフルボッコのように見えるけれど、特に怒ることなく『えー』と言いつつ従う弟。

出来上がったお好み焼きはとても美味しく、息子も目の前で出来るのが楽しいのか、大好きだった(熱いこと以外は)。

 

そんな思い入れのあるお好み焼き、両親が来たときに必ず作ると決めていた。

色々思い出しながら、夫と買い出し。

夫はビールを選んだ。

1人では飲まない父と一緒に飲んでくれるようだ。

私は山芋を買い忘れるエラーを犯したが、数時間後に両親と息子が散歩がてら買いに行ったのでセーフ。

 

そして夕方。

スライサーでキャベツをものすごく細くした。

海鮮の解凍を忘れ、且つ流水解凍の前にザルにぶち込んでしまったので、そのまま流水をかけた。

子供たちにコッソリ野菜を食べさせるため、人参ピーマンを細かくして生地に潜り込ませた。

おろした山芋を混ぜた。

そして夏に買ったホットプレートの、こけら落とし

息子は「お好み焼き!お好み焼き!」と大喜び。

そして窓の外を見て、こう言った。

「おじちゃんはまだ来ないのかなぁ?」

 

そうだね、いつも作ってたのはおじちゃんだもんね。

「おじちゃん、白い車に乗ってこないかなぁ、お母さんの車と同じ、白!」

好きだったよね、おじちゃんの車。

私のダッサイ軽とは雲泥の差。

その後も息子の口から、出るわ出るわ「おじちゃん」。

母が「おじちゃんはね、遠いところに旅行しているから来れないんだよ〜」と教えた。

息子が「そうなの?さみしい…」と答えた。

母が「そうだねぇ」と答えて、息子が視線を逸らしたタイミングで、目頭を押さえながら天を仰いだ。

このときの父の様子は見ることが出来なかった。

確か娘と一緒に遊んでいたと思うが、元国体選手のたくましい父の大きい背中が、小さく丸くなっている現実が、未だに受け入れられなかったからだ。

 

とりあえず2枚焼き上がったタイミングで、食欲旺盛な1歳、3歳児は待てるはずもなく。

軽く冷ましてから一口サイズに切り、先に与え、次の分を私はせっせと焼いた。

焼き上がっては子供用は冷まし、大人用は各自の皿に滑り込ませ、また焼く。

とてもじゃないが自分の分を食べる暇はない。

弟はこんなに大変だったのか。

すごいぞ、ダメ出しフルボッコでもこんな大変な役を引き受けるなんて。

でも私は同時に汁物とサラダも作ったぞ、と心の中でマウント。

 

8枚分の生地とはいえ山芋入りはすごいボリュームで、最後の1枚は譲り合いになった。

食後に、母から「とっても美味しかったよ、お父さんなんて感動しているよ」と言われたが、色んな意味を感じ取った。

これからは、お好み焼き担当は私が継ぐことになりそうだ。

 

そんな感じで、両親の滞在は終わった。

チャージ出来ただろうか。

父は、私と同じく未だに寂しさと怒りで動いているところがある。

分かりすぎて辛い。

 

それにしても、この滞在(と言っても宿泊は近くのホテル)を受け入れてくれた夫には感謝だ。

気を遣っただろうに、「大人の手がたくさんあって、楽できた」と言ってくれてありがたい。

普段は

乾きにくいルームウェアを買ってきたのは自分なのに「生乾きクサイ」と文句を言っていたり、

乾きにくい裏ボアの服を選んで洗濯カゴを溢れさせたり、

洗濯機に洗濯物をパンパンに詰め込んで乾燥までやりかけて私に怒られたり、

私がコロナ疎開中に一つも粗大ゴミを出さずに逃げ恥を何周もしていたり、

頭を抱えることはあれども、

やはり感謝だ。

 

両親だけじゃない、夫にもここの存在、バレませんようにー。

2500文字近く

両親が来てくれて1週間が経った。

子供達が登園している間、両親と3人。

母に台所、父に庭を任せて、ひたすら家の掃除をしている。

観光とかせずに。

とんでもない娘である。

 

前回の記事を読み返したら、非常に読みづらかった。

ただ、修正するのも疲れちゃうので、そのままで、続き。

 

「身元不明遺体が見つかった。」

このときの父の声は、まだまだ鮮明に覚えている。

必死に泣くのを堪えている声。

私の結婚式ですら泣かなかったのに。

(私自身も、両親への手紙を涙一滴も流さず読み上げたが)

電話口の少し遠くから、聞いたこともない母の泣き叫ぶ声、これもまた鮮明に覚えている。

咄嗟に私の口から出たのは、「この件のケアは個人では限界がある、心療内科とかカウンセラーとか、専門家の力を借りて」という非常に人任せなお願いだった。

多分、自分自身が「これは第三者が必要だ」と判断し、心療内科とカウンセリングの予約をしていたからだ。

 

そのあと、とにかく倒れたらダメだという一心で昼食に蕎麦を食べた。

夫にも早退してもらった。

 

夕食前に母から連絡があり、「検死は明日になる」との報告をもらった。

明日になれば色々わかるのか、知りたいような、知りたくないような、よくわからない頭の中。

その晩、どうやって過ごしたのかは覚えていない。

ただ、スマホを見ると色んなところに連絡していたようだ。

 

とりあえず朝を迎え、息子が登園する前にヨガコーチが自宅へ来てくれた。

私と娘を車に乗せて、私は心療内科へ。

その間、娘を見てくれるという。

お陰で、時間を気にすることなく待つことが出来た。

眠剤をいただいて、再びコーチに迎えに来てもらい。

ずっと近くに居てもらい、息子のお迎えに付き添ってもらい。

夕食まで、息子と遊んでもらい。。

信じられないくらいの優しさというか、愛をいただいた。

検死の結果について親から連絡が来るかと思いきや、何もなく。

聞きたかった気持ちと、聞けない気持ちがバトルしていた。

 

翌日は職場のパートさんがシフト休だったので、来てくださった。

たくさんの食材を持って。

中には離乳食もあり、すごくホッとしたのを覚えている。

お昼過ぎに母から「これから火葬だよ」と電話が来た。

泣いていなかったが、全てを放棄したような、全然力のない声。

弟の棺の近くにいるから、最後になんかない?とのことで。

たくさん喧嘩したけど、なんやかんや大好きだったなー

ということを伝えた、はず。

母は弟の顔を見ることはできなかったそうだ。

父は見て、小さい子に接するように、頬擦りしてきたそうだ。

30近く離れたいい歳した男同士、生きていたら「何してんのー」って爆笑するシチュエーション。

爆笑したかった。

Snowで顔交換して遊んでいたりした2人、父の気持ちも想像出来ない。

このときも検死について、聞けなかった。

 

そして1週間が経過した。

当初予定していなかった葬儀をやることにした、と連絡があった。

両親なりに、色々なことを調べたり話を聞いたりして、そう判断したらしい。

実家への移動は不可能だったので、花を贈った。

葬儀は両親だけで行った。

2人とも、弔問客の対応なんて、とてもじゃないが無理そうだったし、私は両親の判断を全て肯定するだけの無能な娘だな、とぼんやり思った。

 

日々両親のことを心配したり、自分の心も壊れそうでグリーフケアカウンセリングに行ってみたり、塗り絵したり、日記をつけたり。

このブログを始めてみたり。

生きることに試行錯誤していた、というか今も進行形で試行錯誤。

 

それから。

母はしばらく寝込んだ。

パジャマを脱ぐまで、どれくらいかかっただろうか。

親戚が外に連れ出してくれたり、色々な本や文献を読み、「弟は親不孝でもなんでもない、素晴らしい人生だった」という考えになり、今ではテキパキと台所に立てるようになった。

ダイヤモンドにすると決めたことで、少し落ち着いたように見える。

弟のエピソードもニコニコしながら話している。

父は、寝込んでいた母に代わり手続き関連を全て担い、母に代わり食事の支度なども全て担い、身体や手を動かすことで気を紛らわせていた。

母が動けるようになって、考える時間が出来てしまったようだ。

今では、母に心配されているし、私も父の方が心配だ。

だから今、庭仕事を任せている(言い訳)。

私は弟は最期に誰の顔を浮かべたのかを考えてしまい、なかなか眠れないので入眠剤を飲み、息子を亡くす夢を見てばかりだ。

 

検死結果について、聞きたい気持ちの方が強くなってきた…というよりもモヤモヤを晴らしたくて、父に聞いてみた。

結果は、何もわからない、というもの。

行方不明になってから見つかるまで、時間が経ってしまっていたため、何も特定出来ないという。

せめて、弟の持ち物が近くて見つかるとかすれば、ある程度の状況は分かりそうだが、何一つ分からない。

永遠に、分かることはない。

父に聞く前と、なんら変わらない。

むしろ「どう頑張っても分からない」ということが明らかになってしまった。

父も私も、超絶理屈っぽい人間なので、このモヤモヤが辛い。

 

他にも行政の方が色々エラーをやらかしてくれたので、両親にまだまだToDoがある。

「ただでさえ息子を亡くして辛いところ、まだ苦しめるのか」と、両親ではなく、近くで見ている人たちの方が腹を立てている。

そもそも、捜索まで腰が重いのも家族としては辛かったが、

それを抜きにしても弟の名前を間違えてHPに掲載したり、「自殺だったんじゃないですか?」と言ったり、両親の心を散々傷つけてくれたことに、私も腹を立てている。

敵がいる方が、感情のぶつけどころがあって、まだやりやすい。

近所のお巡りさんはパトカーを見せてくれたりと、とても大好きなんだけれど。

我ながら、クソ野郎だと、心から思う。

 

 

母は「(弟は)あっちで楽しく、祖父母に可愛がってもらっているよー」と、弟目線で弟のことを考えている。

父と私は、寂しい・納得できない・不明瞭だ、という自分目線で弟のことを考えている。

これから先、距離は離れているとはいえ、3人でどう過ごしていけば良いのか。

難しい。

3000文字近く

両親が来てから数日が経過した。

子供らのチカラはすごいもので、いつも通り生活しているだけで、両親を簡単に笑顔にしている。

そしてその純粋さはときに残酷で、両親は私と弟という姉弟と、私の息子娘という兄妹を重ねてしまうようで、非常に辛そうだ。

そして私は新たな事実を聞いて、またもやられそうだ。

 

今からめちゃくちゃエネルギーを使う覚悟で、どうしても書きたいことを、記す。

書いても何も変わらないだろうけれど、私の気持ちが多少は整理されないかと期待して。

気持ちがやられそうだから、荒療治でもいいから、なんとかしたい。

弟と最後に電話をしてから、見つかるまでの日々のこと。

 

 

夏のある日の週末。

我が家も夫、私、子供たち全員が家にいた日。

外は暑くてお出かけもご時世的にままならないため、実家の両親・弟とテレビ電話を楽しんでいた。

息子は画面越しに踊りを披露し、祖父母叔父に褒められてご満悦。

そして弟は『これから約束だから〜』と退場した。

食事に行ったらしく、20時頃には実家のグループLINEに『今度行こう』とメッセージ付きでお店のURLを送ってくれた。

 

翌日は友人親子が遊びに来て、賑やかだった。

一方で実家のグループLINEがめちゃくちゃ静かだった。

多少違和感はあったけれど、週末はいつも携帯なんてあまり見ない。

違和感に蓋をしておいた。

 

週が明けて、娘の予防接種だったり、娘の保育園落選通知だったり、心身ともに忙しい日だった。

ただ、明らかに実家グループLINEの進みがおかしい。

全員読めば既読が3。

なのに、ずっと2。

写真共有アプリに子供たちをアップしても、弟だけがログインしていない。

気になって、娘の落選通知を母に電話で報告しても、「わかった、今忙しいから」とすぐに切られてしまう。

おかしい。

何か隠している。

弟にLINEを送っても、全然反応しない。

何かあったことは、間違いない。

ただ、私に言わないということは、それだけのことが起こっていると判断した。

親が言うまで、待つことにした。

自分から聞く勇気が無かっただけ、という説もある。

役所や職場に行って、保育園の書類を書き直したりと、やることもあったから、そっちに注力した。

 

また、週末になろうとしていた。

夕方、母から「大切な話がある。近くに夫君がいるときに電話したい」と言われ。

夕食後に電話をした。

 

両親の口から聞いたのは、2番目に聞きたくない内容だった。

テレビ電話した日の夜から、(弟が)行方不明になっており、公開捜査が始まるということ。

警察に届を出したが、「成人男性だし自らの意思で失踪だろう」と言われ、親族や弟職場など色んな人が警察に「絶対にそれはない」とかけ合い、やっと防犯カメラの確認許可が下りたりして、それでも何一つ手がかりがなく、公開捜査が始まろうとしていること。

両親は個人的に防犯カメラの録画を見せてもらおうと色々動いても、どこのカメラの管理者にも警察を通してと言われ(それはそうだ)、警察に頼んだところで「自分の意思での失踪でしょう」となかなか見せてもらえなかったこと。

届を出して数日後に、ようやく許可が下りて見せてもらえて、頑張って映像を見続けて弟の足取りを追っていたということ。

週末に父職場、弟職場の人たちと捜索する予定であるということ。

チラシを刷って、駅周辺で配る予定であること。

SNSで拡散してもらっていること。

 

両親は私がSNSで知ることのないよう、直接電話してくれたようだ。

2人とも、言葉にするのも辛かっただろうに。

両親は最後に「絶対見つける。こっちはこっちで頑張るから、あんたは子供たちの笑顔をちゃんと守れ。」と言った。

そして「この人を捜しています」のチラシデータを送り、拡散するよう連絡してくれた。

 

通話終了後、私には子供たちのお風呂と寝かしつけというミッションがある。

記憶はないが、これをこなしながら、地元の友人達に片っ端からLINEした。

「おかあさん、ちゃんと(僕のことを)見て!」

と何度も息子に怒られたが、上の空。

どうにかして子供達を寝かせて、再び地元友人に片っ端からLINE。

 

夕食に食べたトマトカレーは、身体に吸収されることなく、ほとんど出てきた。

子供たちに見られなくて、よかった。

そして「寝なきゃ」という意識の中で、寝られるはずもなく、翌朝を迎えた。

コンディションは最悪である。

こんな日が続くのは危険すぎる。

せめて寝るために、心療内科で薬をもらおう。

私は情報を持っていそうな方達にSOSを出した。

自宅から1番近くに住んでいる、産後ヨガでお世話になった方が、真っ先に返信をくれて。

顧客から聞いた口コミ情報のみならず、来週から自宅に通うよ、と仰ってくださった。

他にも同僚や職場のパートさんも、全員が力になってくれた。

調べるとウーバーイーツも結構ある。

我が家の生活はキープできそうだ。

 

週が明けた。

夫は在宅勤務にシフトし、近所からヨガコーチが応援に来てくれた。

我が家は無事に回っていた。

しかし、相変わらず弟は出て来ない。

親とは毎日のように電話をした。

1つも進展がなかった。

通帳も毎日記帳しているが、動かない。

クレカの使用履歴を見たら何かわかるだろう、全く動いていないにしても、それがヒントになるだろうと思って照会をすると、家族であっても警察を通さないと確認できないとのこと。そりゃそうか。

警察に頼むと、「照会文書を送ってもめちゃくちゃ時間がかかる」と言われてしまい、すぐにはわからないらしい。

(ちなみに照会依頼をして既に2ヶ月経過しているが、照会内容は未だに報告がない)

 

報告内容は、防犯カメラを確認していた、弟職場の人とタクシー会社を回った、有志が何十人と集まって捜索してくださった、という内容から、

日に日に「自費でドローンを飛ばして捜索している」「自費で船を出した」など、命を落とした弟を見つける活動にシフトしてきた。

何もしていなくても吐けると思った(吐かなかったけれど)。

頭を打って記憶喪失になって、誰かに保護されていて、と願ってばかりいたが。

ついには、イタコさんが出てきたときは、倒れるかと思った。

ただ、偶然か娘が頬にキスしてくれたので、可愛くて笑ってしまった。

そして息子が初めてオマルでオシッコをして、万歳をした。

 

さらに数日経って、翌日に心療内科の予約が取れて、明日からは眠れるはず、と思いながら、ぼんやりしていた日のこと。

近所のヨガコーチさんがずっと娘を見てくださり、私は家事をして気を紛れさせていた。

そんな中、父親から着信があった。

いつもは母なのに、父親から。

嫌な予感しか、しない。

 

父親からの連絡は、1番目に聞きたくない報告だった。

身元不明遺体が見つかった、多分弟だろうということ。

見つかった、身体は帰ってくるということに救いを見出したものの、尋常じゃない衝撃だった。

娘の昼食支度をしていたが、手が震えて進まず、コーチに「ごめんなさい、お願いします」と雑に全てを託して、リビングを出た。

何をして手の震えを元に戻したか、覚えがない。

ただ、1人じゃなくて良かった、と心から思った。

 

 

疲れた。

見つかるまでの日々、私目線。

未だに身に付けていた貴重品は見つかっていない。

何が起こったのかは永遠にわからないのだろう。

まだまだ辛い。

 

ので、あと何回か続けさせてください。

 

弟がいなくなってから初めて親に会う前に

年末調整の書類だとか、慌ただしい。

コンビニに行けばハロウィンからクリスマスの飾りになったり、年賀はがきのパンフレットが置いてあったり。

11月だけれどもう街中は12月に向けている気がする。

そんなこんなで、喪中はがきの手配に忙しかった。

そんな大変な作業ではない。

全部フォーマットが決まっているし、宛先住所の確認だけすれば良い。

ただ、はがきの文面を眺めていると、手が進まない。

自分で入力したから分かっているはずなのに、そこに記載されているのは弟の名前。

弟の命日に、年齢。

分かっているはずなのに、信じられなくて、先に進めなかった。

明日、両親が来る。はるばる車で。

その前に完結させねば。

両親に見せたくは、ない。

 

弟の遺骨でダイヤモンドを作ることにして、それはすでにスイスへ旅立っている。

弟の遺骨に会ってきた話 - すずうくぬつ

しかし全く手元にないのも、ということで、遺骨ジュエリーを親が作ってくれた。

それを届けに来て、10日間くらい、我が家でゆっくりする。

 

正直なところ、どんな顔をして会えば良いのかわからない。

小細工なんてしないで、素直な感情で向き合えば良いのだけれど。

娘としてしっかりしなきゃーという思いでここまで来た。

「親御さんの方が悲しいから」と言われたのもあって、なかなか難しい。

 

弟がいたら、

弟が役に立たない雑学や記憶力を披露して「そんなところに頭使うなよ」とみんなで笑い。

弟と母のおバカ発言を完膚なきまで叩きのめしたり。

弟とその辺に溢れている力学や化学の現象について話して、両親に気持ち悪がられたり。

弟が子供たちにおもちゃを買ってきたのを「またー?細かいパーツ入ってないよね?」と呆れ顔で文句言ったり。

両親が子供たちの動画を撮って「(弟に)そうしーん!あいつ羨ましがるだろうなー」とニヤニヤしたり。

 

これから先もそんなのが続く予定だったのに、私は悔しくて仕方がない。

両親は電話口では

「あいつ、後悔していないといいな。満足していたらいいな」

「きっとあっちで、たくさん本を読んで楽しんでいるだろう」

と言っていたけれど。

あんな若くして想定外に命を落として、悔しくないもんか。

人生やり尽くした、わけあるか。

私でさえ、まだまだ知らない知りたいものがある。

私より4つも若いんだぞ、やり残したこと、あって当然じゃないか。

息子が弟と同じようにイチジクにハマっているんだぞ。

娘が弟と同じように部屋のスミでウンコしているんだぞ。

母は「自然に天命だった、と思えてきた」と言っていたが、私は日に日に悔しくて仕方がなくて、おかしくなりそうだ。

 

そっか、こんな状態だから、両親にどう会えば良いかわからないんだ。

ここ数日の疲れの正体が判明したところで、解決策は見つからないけれど。

難しいや。

親相手にはいつも何も考えないで、火の玉ストレートで話をしてきたツケかな。

どこかに答えは落ちていないものか。

ドリル

先日、電動自転車が納車された。

自転車登園の始まりである。

娘は夫が車で送り、息子は私と自転車というスタイルにシフトする。

それに伴い、息子のヘルメットを購入することになった。

予めネットで調べて、息子が希望したデザインは「赤くて働く車がたくさん描いてあるやつ(トミカ)」。

トイザらスで取り扱いがあるとのことで、土曜にちょっくら車を走らせてきた。

目的はヘルメットだけれど、3歳児にとってトイザらスなんて夢の島

ヘルメット以外も目移りしまくり。

欲しいおもちゃを「お母さん、このおもちゃなんて、おウチにあると良いんじゃない?」と遠回しに薦めてくる。

華麗にスルーしつつも、かと言って何も買わないのは面白くないと思い、「1つだけ、自分で持てるものを買うよ」と宣言した。

そして息子が選んだものは。

しまじろうの数字ドリル。

ドリル、て。

 

弟もドリルが好きだったから、驚いてしまったよ。

年少の頃は、小2の私の真似をして漢字を見ていたら『面白い図形』だったらしい。

漢字のドリル、単語カード、フラッシュカードなど、本屋に行くたびに欲しがっていた。

私は負けず嫌いなので、「弟より漢字が読めるようになりたい」と言う思いから、色んな本を読んで漢字を学んだ。

(余談だが、漢検準1級の勉強までした。勉強だけ。)

負けるもんかと言う思いと同時に、「私の弟は頭が良いんだ!」と鼻が高い気持ちにもなっていた。

友達にはもちろん、担任の先生にも「弟は天才だ」と絵日記で伝えたくらい。

 

ただ、負けず嫌いのベクトルまで弟に求めてしまったところもある。

弟の同級生が、同じく年少にして九九の暗唱が出来ていたので、弟にも教えようとした。

私はいとこから貰った九九を歌にしたCD(カセットだったかも…)を聞いていたので、弟とも一緒に聞くことにした。

しかし弟にしてみれば、意味のわからない呪文。

ににんがし、よりも漢字の方が性に合っているらしく、九九は私が思うペースでは覚えず。

九九の歌は楽しかったようで、曲に合わせて放屁してケラケラ笑っていた。

私も覚えてもらおう!という意欲はどこへやら。

2人して「オナラが出そうになったら九九の歌に合わせる」と知性も品性もない遊びを楽しんでいた。

 

結局先取りで学んだところで、どうせあとで全員出来る様になる。

漢字も九九も、何一つ珍しくない。

「弟天才!」プランはそれ以降何も無…

いや、確か数年後の彼の誕生日プレゼントに、「コレ好きだから!」と言って計算ドリルをプレゼントしたわ。

親戚からは「なんて姉だ」と言われたし、弟もそんなに嬉しそうじゃなかった。

 

娘(うんち - すずうくぬつ)に続いて、息子のドリル。

私と弟2人して持っていても、私には発現せず、弟には発現したDNA。

私には発現せず、息子と娘に継がれて、それぞれ違う形で発現したDNA。

次はどんなところに出てくるのか。

少し胸が苦しくなってしまうけれど、楽しみだぞ。